ランニング嫌いな人間が雨の日でも走り出すようになるまで

15日間も降雨の続く東京において、家の中に篭っていることに耐えられなくなったので、今日も雨の中を 10km 走ってきました。

今でこそ自ら進んで走りに行くことが習慣化していますが、私はもともと走ることが嫌いです。マラソンなどは拷問だと心の底から思っていました。

私は基本的に運動が嫌いです。しかし、スポーツは好きなので、クロスカントリースキーに始まり、サッカー、競泳、登山、アルペンスキーと周辺の環境に合わせて様々な趣味を開拓してきました。

最近では場所を選ばないことからロードバイクに熱中しています。

そうしたスポーツの競技性を楽しんでいる一方、私にとってのランニングはそれ自体が目的にはならず、飽くまでも訓練の域を出ないものでした。

私は訓練のような単調な作業が嫌いです。

筋トレなどはその最たるもので、単純作業の繰り返しがもたらす「時間の浪費感」に最大限の苦痛を感じます。

単純作業では過程に対する創意工夫が果たす役割は些細なものです。

ただ「やったか、やらなかったか」の繰り返しが残酷なほどに結果に反映されます。

そのためランニングなどの訓練を継続できる努力家は凄いと一方的に思い込んでいました。

ところが走ることが好きな人は、ランニングを訓練とも単調な作業とも捉えていないようなのです。




幸か不幸か、私の親しい交友関係の中にはランニング好きな友人が6人もおり、一緒に走りに行く相手には不便しません。

趣味のロードバイクで出掛ける時よりも、よほど簡単に伴走者を見つけることができます。

そんな友人たちを観察していると距離を伸ばせることに熱中しているものをいれば、走行ルートの風景を重視するもの、身体を動かすことに純粋に喜びを感じているもの、或いは走りながら話すことを楽しみにしているものと実に様々です。

覚えている限り、私がランニングを始めた理由はヒルクライムに必要な心肺機能を鍛えたいこと、ランニングは負荷が高いため時間あたりの練習効率を高くできると思われたこと、そしてロードバイク同様に場所や環境を選ばずに行えることの3点です。

走ることそのものよりも結果や効能に目が向いています。

そうすると、どうしても「速く走らねばならない」「距離を走り込まねばならない」「継続しなければ意味がない」と義務感を動機にしなければ、自分からは走り出せなくなります。

当然ながら走ることや運動そのものが嫌いになります。

それに気がついてから、義務感を感じながら走ることを辞めました。

ゆっくり誰かと話したり、考え事をしながらでも、ほどよく身体を動かせればいいぐらいの脱力した気持ちで走ることを意識して行なっています。

走りに出掛けるタイミングも、ロードバイクを楽しめない雨の日、勉強も読書も遠出もできない隙間時間だけを割り当てることで、時間の浪費感に苛まれることもなくなりました。

訓練としての効果が実感できるようにはなりませんでしたが、ランニングで得られる刺激と走行後の疲労感が心地よく感じられるようになったことにより、日々の生活の質は向上しました。

と言うのは、私のように東京の中心部に住んでいる場合、好きな時にロードバイクに乗ってストレス解消に出掛けるということは不可能なのです。

人通りの多い日中に出掛ければ、混雑と渋滞と信号停止 (の際に信号無視の自転車に追突されたり、左折車に進路を妨害されたり、自動二輪車に無理な割り込みをされる等の諸々の危険性) の影響によって、より大きなストレスを抱えることになってしまいます。

そんな時にランニングで気分転換を行うことができれば、その後の時間をずっと有意義に過ごすことが可能となります。

まだ趣味の一つと自身で認められるほど好きにはなれないものの、生活習慣の一つとして、気分転換の重要な手段としてランニングは確実に定着してきています。

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