白銀の長野

緊急事態宣言解除後の4月初旬。連日つづいた陽気から一転して気温が急低下したある日のこと。無性に山に登りたくなった私は長野にいました。

駅前の電光掲示板が示す外気温は4℃。天気予報では市内は -1℃ 白馬は -3℃ 軽井沢に至っては -6℃ という季節が逆戻りしたような数字が表示され、連日の雪崩注意報は撤回されて路面凍結注意報がにわかに聞こえ出します。

低温のほうが空気が澄むので悪いことばかりではないものの、さすがにこの気温と標高では路面凍結が心配です。行くかどうか少しばかり逡巡した結果、保守的に国道沿いを選べば大丈夫であろうという見込みで出立することを決めました。

まずは長野の中心市街地から県庁前を通って国道406号へ。この406号は中心市街地の法務局前あたりでは片側1車線の大きな通りですが、西進すると直ぐに中央線もなくなり狭い路地のような様相を呈します。

少しばかり不安を覚えつつ進み続けると、裾花川のあたりから中央線が再出現し、主要国道らしさを取り戻します。しかし、そこから長いトンネルと登坂が延々と続く苦悶の区間が始まります。

この区間で最大の苦痛要因と言えば交通量の多さです。とにかく車が多くて、真横を通り過ぎていく際の距離が近い、しかも一様に速度が大きい。そのため道路上にいるだけで恐怖を感じます。

まるで奥多摩をそのまま道路を舗装状態だけ悪くしたような印象を受けます。

一応、トンネルの多くには歩道も設けられてはいるのですが、側溝の蓋が敷き詰められていたり、砂を被っていたりして路面状態が確認できないところが多いです。車道との間に段差はあれど柵はないので、もし側溝の蓋が陥没して右側に転倒したら死亡事故につながるおそれがあるだろうなと思われます。

一つ一つのトンネルが長くて視界も極端に悪く、しかも山間地で通行人数も少ないことを想定すると自転車の場合は車道を走行したほうがまだ安全だと思われました。というわけでもないですけれども、長野県内を通行する場合には昼夜問わず尾灯を常時点灯しておいた方が無難です。命を大切に。

登坂はともかくトンネルと交通量に嫌気が差してきた頃に鬼無里に到着します。距離にして 21.1km。走行時間では1時間かからないぐらいです。

旅の駅鬼無里や飲食店は営業時間外なので補給はできず。

どうやら午前9時前に到着してしまうと自販機以外の施設は利用できないようです。私の場合は最初から当てにしていないので問題ありませんけれども、峠を越えて白馬村に辿り着くまで道中にコンビニ1件すらないので、現地調達をお考えの場合は到着時刻に注意したほうが良いかもしれません。

鬼無里を通過すると嬉しいことに最大のマイナス要因であった交通量が激減します。どうやら、ここから分岐して白馬と戸隠と小川に進めるようで国道406号を直進して白馬に向かう車はほとんどいません。

非常に気分が良いものの、路面状態は目に見えて悪くなります。観光情報で鬼無里の名前を聞く割に景観もとくに良くはありません。気分は小河内ダム(奥多摩湖)のない奥多摩です。

さらに進み続けて鬼無里一ノ坂という小さな橋を越えると山道へと突入。それに合わせるように舗装状態も笑ってしまうほど良くなります。不思議なことに居住者のいる集落よりも山道のほうが舗装が良いのですが、この辺りで行政の管轄が変わったりするのでしょうか。

市域が変わると煙草などの税率が変わるので道路を挟んで両側が全然違うという現象を米国でよく目にしたことを思い出します。




さてここから始まる山道こそ、かの有名な白沢峠です。別の名前を嶺方峠と言います。知り合いから前評判で斜度 10% 超でそれなりに交通量が多いと聞いていましたけれども、体感では全く大したことはありません。

この峠よりも長野駅前から鬼無里に来るまでの区間のほうが大変です。

補給ポイントはほとんどありませんが、鬼無里まで無事に来られる走力をお持ちなら、その延長で越えられる程度の難易度だと思われます。

心配していた凍結もなく、交通量も少なく、斜度も緩くてまさに理想の峠道。斜度が緩くなってきた No.3 カーブあたり先からは調子に乗ってアウター縛りで進んでも問題ありませんでした。山登り楽しい。

ただし斜度が小さい反面、距離が長いのでどれぐらい続くのか不安にもなります。まだ続くのかと面食らっていると落石注意の看板が見え、やがて雰囲気のないトンネルの入り口が見えます。

トンネル内には氷のスパイクが

抜けた先に一望できる飛騨山脈。北アルプスと言ったほうが通りは良いですが、私はこれらをアルプスとは呼びたくないです。

この先でアルプスと名付けられたランドマークの多さに辟易したというのも一因ですが、峠でご一緒した気の良いご年配の夫婦が「トンネルを額縁に見立ててアルプスを収めるのが粋」と仰られたことが私の心に引っかかりました。

素敵なご夫婦だなと思いながらも「アルプス」「アルプス」と連呼される様に、いやこれらはアルプスじゃないだろと疑問を感じてしまったことが始まりです。アルプスは立ち塞がる壁、畏怖、威容、近寄りがたさを彷彿とさせるもので、飛騨山脈は調和や親しみを感じさせるものと私には感じられました。

しかし少し考えて、山に思い入れがある登山家やアルプスを身近で見てきた人でもなければ、飛騨山脈とアルプスを同義と見なしていることは不思議でもないかと思い直しました。飛騨山脈は飛騨山脈で良いじゃないかと思ったことは心の中にしまっておきます。

幼少の頃、2学期間だけ在籍した学校で知り合った顔も名前も覚えていない「学友」は、日本にいるおじいちゃん、おばあちゃんに日本語で手紙を書いてみようという課題に対して、全員が「日本に帰りたい」「ともだちに会いたい」と回答していたことに驚き、立場が近いはずの彼らでさえ自分とは埋められない差があることに愕然とさせられたことを不意に思い出します。




思わぬところで嫌なことを思い出した結果、ダウンヒルのことは意図せず記憶から抜け落ちてしまいました。長野側よりも白馬側のほうが斜度が大きめだった気がします。道幅が広いので危険を感じることはなかったと思います。

峠道を抜けると白馬村に到着です。ここから北上して糸魚川に向かうか、南下して松本に向かうか。迷った末に気温4℃という条件を思い出して後者を選びました。

どちらも土地勘はありませんが、糸魚川方面は姫川沿いの渓谷で路面凍結が不安だったことに対して、松本方面は安曇平という平坦な地形が続くため、凍結の心配が少なかったことが決め手になりました。

結果から述べると、これは失敗だったような気がします。

まず白馬村を抜けて大町市に入るところからトンネルが出現します。この辺りの地形からトンネル前後から道路が国道148号に収束されて、青木湖から信濃木崎駅までの間は実質的に道路が1本しかないという状況に陥ります。

しかも観光地の白馬や県境を越えて糸魚川まで向かう道路が他にないことから、長野市内など比較にならないほど交通量が多くなります。

青木湖に向かうあたりでは道路上に散らばる融雪剤と鉄錆で茶色に変色した道路に閉口するぐらいでまだ余裕がありました。青木湖も湖面が美しく、立地も素晴らしいわりに物寂しい雰囲気が漂っていることが不思議なぐらいでした。

ところが青木湖から南側は通りたくなくても国道148号しか選択肢がありません。そして、この国道148号は車の列が途切れずに続く忙しい道路である上に、谷筋を進むので展望も良くないのです。せっかくの長野県なのに、これはないだろうという失望を覚えます。

木崎湖を迂回するために長いトンネルを経由することになったところでは、途中で引き返して長野に戻るか、糸魚川に向かおうとさえ思ったほどです。

そこで引き返さなかったのは、反対車線に渡るために車列が途切れるのを何時までも待ち続けることを考えると気が遠くなったからとしか言えません。待っているのも寒いのです。忍耐の末にようやく木崎湖を越えると大町市の中心市街地に入ります。

雪と枯れ木の冬の世界から一転して大町市では桜が満開。季節の変わり目を感じます。

ここから先は驚くほどの平坦な道が続きます。大町から塩尻までおよそ50km。安曇平、松本盆地の広さに圧倒される反面、関東平野や京都盆地を走っているような気分になります。つまり言い換えると、せっかく周辺に素晴らしい山があるのに、わざわざ交通量が多い上に単調な平坦路を通るのは勿体なく思えてしまいます。

とくに松本から至近の乗鞍岳や車山高原は行かないこと自体が損失と言い切れるほどの唯一無二の存在です。あと一月ほど経てば、安曇平のあたり一面は緑に覆われて涼しげな清流が心地よい景色に変貌しそうだという期待を感じさせるものの、それでも山道の静寂と立体的な移動の楽しさは変えがたい魅力があります。

高瀬川に沿って無心にクランクを回し続けること40km。広大な安曇平をようやく抜けて松本平へと至ります。今回の旅はここで終了です。

後から見直してみると、青木湖から県道324号を経由して美麻に向かえば木崎湖を避けることができた、いや、白馬から県道33号に進んでいたら遥かに満足度が高まっただろうと反省点が多々見つかります。前者は平簗場の立体交差にて青看板の表示で行き止まりだと錯覚してしまった点が少し悔やまれます。後者はそもそも意識になかったので完全に調査不足です。

なんでも準備が肝心だなと思い返しながら浴室で自転車にこびり付いた塩化カルシウムの結晶を洗い流します。

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