凪の西伊豆

海外に出張続きの日々が続くと、ときどき海岸線の風景が見たくなります。

切り立った崖沿いの小道を進んでいくと、突如として眼下に広がる湊町、遠浅の海の透き通った水に古びた商店など、いかにも日本らしい光景が最高です。

東京近辺でこうした風景が見られるのは三浦半島の南端ですが、半島地形だけに休日はどの道を通っても 20km 近くの断続渋滞に巻き込まれます。

そこで、今回は関東平野を抜け出して、知る人ぞ知るサイクリストの楽園にやってきました。関東近郊で自転車をもっとも楽しめる最高の場所、それは西伊豆です。

西伊豆の良さは海と高山を併せ持つダイナミックな地形、交通量の少ない静かな道路、運転マナーの良さ、地元の人の親切さなど枚挙に暇がありません。




ただし、ここを訪れる人が少ないことからも分かるように、それなりに高いハードルもあります。

急峻な地形、人口希薄地帯の広さ、強風、夏の暑さと日陰の少なさなど、自転車で周遊する際の難易度では伊豆半島は暫定日本トップ3に入るぐらいです。

ちなみに他の2つは紀伊半島の北部(奈良県南部、和歌山県北部、三重県南西部)と山梨県の大弛峠で、この中で一番やさしいのが大弛峠です。

伊豆半島では普通に舗装路を走っているだけで、距離 100km にして獲得標高は 2,000m 超なんてことになります。集落と集落のあいだは民家すら存在しない無人地帯で、自販機1台すらも無い山道が 20km 近くに渡って続くことが普通です。

坂道はどこも急勾配で、多くの坂において最高斜度は 14% を越えます。

この無補給地帯に耐えられる体力と激坂に負けない走力を備えた者だけが伊豆の美しさを堪能できるのです。

地形的な困難も大きい分、走り終えたあとの満足感や心地よい疲労感もひとしお — そんな伊豆ライドの開始点は函南駅か三島駅のどちらかがオススメです。

小田原から下田までの国道135号線は本当に使えない道路(※自動車専用道を除くと、関東から直接伊豆に向かう唯一の道路ながら常時渋滞している最大のボトルネック)なので、ここをいかに回避するかが伊豆旅行の質に大きく影響します。

湯河原から網代までを避ければ、恒常的に渋滞している区間はそれほど多くはないので、東京から訪れる場合でも小田原や熱海ではなく、函南や三島から中伊豆(韮山や修善寺)を目指されるとスムーズに到着できます。

実際のところ、道路が中伊豆の方を向いているので、海岸沿いの混雑地帯を避けながら伊豆に向かうと自然と伊豆長岡あたりを経由することになります。

ここまで来たら、東伊豆(伊東や河津)を目指しても、西伊豆(戸田や土肥)を目指しても、南伊豆(下田や石廊崎)を目指しても、もちろん天城や伊豆高原を目指しても、どこに向かっても急勾配の坂道だらけです。

ちょっと丘を越えようと思って登り始めた坂が 10km 以上も続いて、終わりが見えなくなることも少なくありません。

あの国道1号線ですら海抜 4.8m の小田原(市民会館前)から、わずか 18km で標高 874m (箱根町 国道1号線最高地点)まで登ることを余儀なくされているのが、この富士箱根伊豆という地域なのです。

この日は初秋らしく気温は 32℃ 湿度は 80% もありましたが、風は 1m/s の東風とほとんど無風状態でした。

こういうときは遠景こそ期待できませんが、凪の穏やかな水面を堪能することができます。

行き先としては仁科峠を越えて松崎に向かうよりも戸田や内浦のほうが楽しめそうな気象条件です。

ここで今日の行き先が決まりました。

と言っても、どこに行くにも山越えが避けられないのが伊豆半島です。きっちり標高 730m の戸田峠まで登ります。

この辺り、もし北海道であったら間違いなく道の駅が設置されているであろう場所が、ことごとくゴルフ場やテーマパークなどの敷地で埋められています。

こうした事情も伊豆らしさであり、補給場所が皆無なのでとってもツライです。

誇張なしに補給場所は だるま山高原レストハウス とそこから 22km 離れた 西天城高原「牧場の家」 の2つしかありません。

道路の雰囲気は湯河原椿ライン(神奈川県道75号線)に似ていて、交通量は少なく、舗装も比較的良好ですが、斜度はこちらの方が厳し目です。

戸田峠まで登りきると、そこから西伊豆スカイラインに入って、さらに登り続けることができます。

西伊豆スカイラインの高原風景は一見の価値ありです。苦労して登ってきた甲斐があります。

この後もまだまだ登り続けて、気がついたら標高 900m を越えていたりするのですが。

今日は海を見に行きたいので土肥峠で西伊豆スカイラインを降りて、土肥温泉へ向かいます。

普通はあまり西伊豆スカイラインから土肥温泉に向かう人はいません。

そのままスカイラインを南下すると絶景で有名な西天城高原に辿り着くので、そこまで行く人が多いのと、土肥峠あたりは最大斜度 14% の下り坂がつづくので慣れていないと危険です。

事前情報では路面状態が悪いと伺っていましたが、訪れてみた際にはそれほど悪いとは思いませんでした。

長い長い下り坂を抜けると、いよいよ海が見えてきました。

目論見通りに凪の海は透明度が高く、海岸沿いでも奇跡的な無風状態です。

この後の予定がなければ、このまま何時間でも波打つ水面を眺めていられます。

でも、楽しいのは、実はここからです。

海岸沿いの道路は漁村を通り抜けて、切り立った崖を登って山道になり、そこから海を見下ろした後に、次の漁村に向かう長い下り坂に変わります。

景色の移り変わりやコースの高低差という意味では、決して山間地にも引けを取らないものがあります。

仁科峠まで行かなかったことを全く後悔させないぐらいの素晴らしい景色です。

相変わらず、補給地点は市街地までいかないと一つもありませんし、わずかな市街地を除けば坂道しか無いほど、平地がほとんど無いのですが、それがまた楽しくもあります。

ほんとうに強風さえなければ、西伊豆は最高です。

土肥から戸田、江梨、西浦と進むに連れて、景色もさらに魅力を増していきますが、それと同時に交通量も少しづつ増えていきます。

三津まで行くと、沼津の中心部からの市街地が連続しているので、ほとんど沼津の郊外といった趣になります。

地図上の距離で見ると、伊豆への輪行には沼津駅も良さそうに見えますが、三島よりも沼津のほうが市街地区間が長いのと国道414号線は道幅が狭くトンネルも多いので、あまり通りたいとは思えないところが残念です。

国道414号線の内浦ルートに比べると、往路につかった伊豆長岡ルートは景色は単調ですが、田園地帯なので交通量は少なめです。

ここまでで意外と余力が残っていたので、復路は長岡と韮山を経由して函南まで行くことに決めました。

もっと早い時間にたどり着いていれば、帰り道の途中に十国峠を入れて 3,000m UP も楽しそうなんて思えてきます。

実際のところは日没後のダウンヒルは神経を使うだけで楽しくないですし、箱根の渋滞を避けようとすると湯河原に抜けて、そこから国道135号線という最低の道路を通ることになるので、なかなか難しいところです。

そうすると今度は熱海を起点にして考えてみるのが良いんでしょうかね。

「遠州一の激坂」秋葉山を登る

神秘的な朝霧の天竜を遡ること、およそ1時間、気田川と天竜川の交わる地点に秋葉山はあります。

赤石山脈の南端に相当するこの秋葉山が、何をもって「遠州一」と呼ばれているのかは分かりかねますが、知名度の点で言えば間違いなく遠州一と断言してしまっても良いでしょう。

もちろん、名前だけではなく平均斜度も 10% と強烈です。距離と獲得標高に至っては 7.2km に 700m 超と何かの冗談のような数値が出ています。

東京都内でもっともキツイと言われる和田峠でも距離 3.5km に 平均斜度 10.3% ですから、秋葉山は単体でおよそ和田峠2つ分という恐ろしいスペックを誇ります。

あの林道風張線でも全長 4.2km に獲得標高 490m 程度しかありませんので、全長 7km に獲得標高 700m 超というのが、どれぐらい凄いのか分かります。

そもそも比較対象が林道な時点で並大抵の坂ではありません… と思っていたら、こちらも列記とした林道でした。

全長 53km の天竜スーパー林道 – その最初の 7km こそが秋葉山本宮の参道であり、今回のライドの目的地でもあります。

私は車両進入禁止の森林作業道には立ち入りませんので、公道や廃道ではない意味での「林道」には登山(徒歩)以外では訪れることはないのですが、自由に通行して良いのであれば話は別です。

秋葉神社までは通行して良いのであれば、ありがたく通らせていただくまでです。




この林道の起点近くに自動販売機があり、買おうと思えば飲み物も補給できるみたいでした。このときの私は飲みかけの綾鷹の処理に困っていたので、詳細は確認していませんけど、定期的に商品が補充されている雰囲気はありましたので、最悪でもここで飲料を調達できるかも知れません。

林道に入ってしまうと、秋葉山本宮にたどり着くまで補給地点は一切ありません。

そして前述の通り、この林道は半端ではありません。

距離と斜度だけでも十分に危険ですし、林道らしくガードレールが部分的にしか設置されていませんので、気をつけていないと滑落するおそれがあります。

それに加えて、豊富な湧水が路面に溢れ出している箇所が幾つも見受けられます。この豊富な湧水は関東平野の辺縁では、まず見られません。

その一方で空気は澄み切っていて、人の気配は微塵もなく、緊張感を感じられるほど、森の中は静かです。

時折、木立が途切れて、青空と山並みの間を覆う雲海が視界に飛び込んできます。

しかし、基本的には展望は開けず、鬱蒼とした森林の合間を縫って延々と登坂が続きます。

勾配の強烈さといい、長さといい山梨県の大弛峠によく似ています。体力が尽きる前に登坂が終わってほしいと願ったのも大弛峠以来でしょうか。

秋葉山も大弛峠のように厳しい坂道から始まって、一時的に傾斜が弱まり、また険しくなることを繰り返します。

距離を示す道路横の案内看板も正確で「あと和田峠1つ分」と数えているうちは余裕がありますが、後半になってくると登りきったつもりになっても「まだあと 1.5km もあるのか」と、しっかりと落胆できます。

大弛峠を含む他のヒルクライムスポットとの違いは、ここは赤石山脈の南端ではあっても鞍点や峠ではないということです。

足を攣りそうな思いをしながら秋葉山本宮まで登っても、林道としてはまだまだ奥まで続いていきます(ただし現在は全面通行止めです)。


登り始めた頃には朝霧に包まれて全てが曖昧に見えた光景も、到着する頃には朝の光に照らされて、いつの間にか細部まで明瞭に見えるようになっていました。

あらためてよく見てみると、厳かで緊迫した空気といい、細部まで見事な意匠を施された建築といい、樹齢 650 年の古木といい、フクロウが住む境内といい、秋葉山神社だけでも数え切れないほどの魅力があります。

この素晴らしい光景を眺めているのは自分一人なのかなと考えていたら、なぜか場違いな若い女性が一人だけいて、背後から話しかけられました。

林道に入ってから、ここに至るまで車一台すら通りかからなかったので、少しばかり驚きましたけど、本格的な登山靴にソフトシェルのジャケットという出で立ちだったので、伊那の方から稜線でも歩いてきたのかも知れません。

残念ながら、現状、ここより先には自転車では進めませんので、登ってきた道を引き返すことになります。

斜度 10% を 7km 登るのは嫌ですが、それを降るのはもっと嫌です。

最近は碌でもない山道ばかり走っていたので耐性が付きましたけど、洗い越しのように水が流れている急坂をカーボンリムで降るなんて、どうかしていると思います。

幸いにも路面はそれほど荒れておらず、交通量も文字通りに皆無だったので、コース取りと速度にだけ気をつけていれば、距離と斜度のわりには安全に降ることが可能でした。

降り切った先の景色は、モノクロだった早朝とは打って変わって、青と緑の世界に変化していました。

朝霧を抜けて天龍を登れ

天竜は浜松市の中心部から、およそ 20km から 60km ほど北方にある山間地です。

愛知県の北設楽郡、長野県の下伊那郡に近接しており、絶景に魅せられて奥地まで進んでいくと、自然と県境を越えていることも珍しくはありません。

その静謐な雰囲気といい、奥行きを感じさせる圧倒的なスケール感といい、湧水量の豊富さといい、天竜の山道は省道臺八線こと中部橫貫公路によく似ています。

浜松名物の餃子が台湾滞在中の日々を思い出させることも相まって、気分は完全に台湾自転車旅行です。

そんな天竜川渓谷が最高の表情を見せるのは、何を差し置いても晴天時の早朝です。




水量豊富な天竜川の蒸気霧が窪地を覆い、月にでも行けてしまえそうなほど神秘的な光景を目にすることができます。

やがて夜が明けて、太陽が昇ると濃霧は雲海となって、地表を覆い隠しながら青と白と緑のコントラストを作り上げます。

視界がぼやけて何もかもが曖昧だった早朝から、雲海の朝を経て、陽の光によって全てが明瞭になっていく過程はあまりに鮮烈で、たった一度の訪問で天竜の虜になってしまいました。

これだからロードバイクは辞められません。

そして、この天竜渓谷の中央に控える秋葉山こそ『遠州一の激坂』と名高いヒルクライムスポットであり、南アルプス・赤石山脈の南端です。

全長 50km 超のスーパー林道天竜線もここにあります。

決して全容を知れない奥深さ、天候や時間帯によって刻々と移り変わる表情、険しい山道に美しい渓谷と、何度くりかえし訪れても感動します。

本気で浜松に移住しようかなと思えるぐらいには楽しめるので、機会がありましたら晴天時の早朝未明を選んで訪れてみてください。

続き 「遠州一の激坂」秋葉山を登る

Contact Us